続くを築く

私たちの築いた建物は、長く建っています。明石・神戸は、大きな災害に遭いましたが、それでも建ちつづけてきた建物があります。私たちが一つひとつの建築と向き合ってきた結果であると自負をしています。まちを支える建築物を多く手がけてきた私たちの仕事は、人々の暮らしが続いていくための信頼ある建物を築くことです。
必要とされる新しい建物を建てること、築いてきた建物をさらに長く使うために改修すること、そして、まちを次の世代へとつないでいくこと、「続くを築く」四橋組の使命です。

代表あいさつ

Challenge to the future
未来への挑戦

社業の発展を通じて社会に貢献するべく、全社員の工夫・知恵・情熱・意欲・実意を結集し顧客と社会の満足を得る構築物を提供いたします。
現在の不況を乗り越えても、建設業界は成熱した業界です。建築業界は社会の基本をつくっているという自負のもと、どのような状況でも自信を持ち、社員一丸で元気な社員=元気な企業を目指しています。そして、「株式会社四橋組」の社員である誇りを胸に、自分の立場を理解し責任を果たすべきであると考えます。未来に向かって新しいシステムで気を引き締め、新たなる目標に向かってチャレンジし、顧客・社会そして社員が満足できる仕事をしてまいります。

株式会社 四橋組 代表取締役橋 次雄

橋組の歴史

神戸・明石に根ざした四橋の歴史

江戸時代幕府が「分地制限令」を出した1673年(寛文13年/延宝元年)、旧明石郡岩岡村野中は新田開発地域であり、四橋は新田開発、また田畑以外に土木工事にも携わったと考えられます。新田開発後、日本で初めてこの地でタバコ(米国黄色葉煙草)が栽培されました。

1872年(明治5年)、近代最初の壬申戸籍が作成されました。1673年からの記録は現在ありませんが、平成の中頃まで、現在の神戸市西区岩岡や神出から多くの農家の方々が農業をしながら現場仕事に従事していました。

記録は、1829年(文政12年)生まれの四橋藤吉から儀右衛門、儀三郎と継承されています。沿革での初代となる儀三郎は、1920年(大正9年)に、旧明石郡岩岡村野中から明石市鷹匠町に営業所を移しました。当時、旧明石市と明石郡の同業者による土木建築組合が存在し、戦後間もない1946年(昭和21年)6月に、地元10数社で兵庫県建設業協同組合明石支部を結成しました。

1951年(昭和26年)3月、四橋儀三郎は組合長に就任。1953年(昭和28年)8月1日、現在の社団法人兵庫県建設業協会明石支部として法人組織に再発足し、初代支部長に四橋儀三郎が就任しました。

その後、儀三郎から英男へと時代は移り、1978年(昭和53年)7月、四橋英男は本社を明石から現在の神戸市西区に移しました。そして現在、四橋次雄に継承されました。